叙事詩 「月の夜に恋の光」『その2 珈琲屋の彼女』

まちの人・ものづくりのページでは、創成東エリアで活躍するものづくり人の作品を紹介します。

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叙事詩 「月の夜に恋の光」
作:中井 亮一
絵: Futaba.


『その2 珈琲屋の彼女』

二条魚町。

奇妙な名前だと彼女は思う。
この国のどの町に、”魚町”という名前があるのだろうか?

”分かりやす過ぎる”
彼女は思う。

”でも素敵じゃない”
とも彼女は思う。

魚を売っているから魚町。
シンプルでいい。

鮭蟹鮭蟹昆布鱈昆布鱈鰊鰊鰊etc etc

彼女は喫茶店の店員だ。
この春で、三年目。

その店は、魚町の市場の通り向かいにある。

彼女の働いている店は、珈琲が美味しいと評判の店だ。
魚町の珈琲店。

オーナーが焙煎した珈琲豆を、彼女が淹れる。
二条の通りに、芳ばしい香りが、棚引いている。

七坪の、細長い喫茶店。
今日もカウンターは、賑わっている。

注文が入る。
コーヒー豆の分量をスケールで計り、ミルに入れ粉砕する。
その豆を、ネルに詰める。
お湯の加減を見て、ポットに注ぐ。

彼女は、珈琲を落としてる。
丁寧に丁寧に。
間違いのないよう、心を込めながら。

ネルドリップは、隙のない作業が要求される。
挽かれた豆に水分を与え、膨張させる。

そこに、細い雫を注ぎ込む。
やがて、真っ黒の液体が、布から滴り出す。
一滴、二滴、三滴。

彼女はその瞬間を愛おしく思う。

”明日を誰かのために生きられるように”

滴り出した液体は、一本の糸となり、地球の重力を伴い降りてゆく。
そして、それは珈琲となる。

ブレンドたちや、ストレートの豆豆。

それらのコーヒー豆たちは、彼女を経由して、珈琲に生まれ変わる。

「いつもより早いですね」
毎日来る常連に、彼女は言った。
その客は、この間語学留学で、マルタ島に行っていた。
「今日は、お客さんが来るの」

喫茶店の彼女は、その言葉に微笑む。
そこらが、少しだけ明るくなる。

付き過ぎず、離れすぎず。

色々な人々が、そこを訪れる。
老若男女。月並みな言い方がピタリ。
分け隔てなく、彼女は対応する。

気づくと、客が途切れない店となっていた。

ふと時計を見ると黄昏が近づいていた。
彼女は、いつも来る彼が、いないことに気づく。

毎日来て、黙って珈琲を飲む、若い男のことを。

「今日は来ないんだ」
彼女は思う。
だが、そんなことは一瞬で過ぎ去る。
何故なら、彼女は忙しいのだ。

五月の平日。
この街は降ったり止んだりになる。
リラ冷えの季節。

今日も朝から忙しい。
夕方も、いつもはその流れが続くのだが、珍しいことに途絶えた。
しばしの閑散。
アイドルタイム。

市場側の入り口から、彼が入って来た。”黙って珈琲を飲む”彼だ。

「いらっしゃいませ」

彼は、いちばん入り口側のカウンターに座る。
まだ若い。
二十代だろう。
髪が、いつも短く刈られている。

カウンターに、白い芍薬が揺れている。芍薬は、まだつぼみのまま。

店は、彼と彼女が、ふたりきり。店内のBGMが、叩きつける鍵盤に変わった。

「珈琲を」

彼が言った。

つづく

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