FAbULOUS 中村健一さん その3

2017.12.27| あきない

 

このページでは、創成東で面白いコトをおこす「ひと」を紹介していきます。
前回に引き続き、複合店舗「FAbULOUS(ファビュラス)」をひらいている中村健一さんのインタビューです。
初給料を小切手でもらい徐々にアメリカを感じていく中村さん、その後はどうなっていくのでしょうか?
きき手:山本忠(さっぽろ下町づくり運営スタッフ)

 

中村:少しずつ英語でも会話できる様になり、アルバイト的な事も出来る様になりました。
そのころ兄の友達のTさんがアメリカに遊びに来ることになり、ロス等現地を案内することになりました。Tさんのお友達も一緒にいらしたのですが、その方が服や雑貨の買付の会社をアメリカで設立しようとしていて、現地を案内した事をきっかけにそこで働くご縁を頂きました。

山本:お見事!まさに袖触れ合うのも!だね。

中村:そうですね。その会社で働き出し生活も少しずつ安定して。
ただ、若干物足りなかったのがアメリカの現地法人ですが、従業員は全員日本人でした。

山本:アメリカだけど日本、苦難は続く(笑)。その時の仕事の内容は?

中村:現地の物(服飾)を買付け、日本に送る。日本では古着販売が絶頂の時です。

山本:買って、送って、買って、送って、それでも日本では商品が足りないみたいな感じ?

中村:そうですね。目方でドン!でまとめて買う事と、ビンテージものをセレクトして買う、そんな感じでしたね。

山本:目方でドン!って、バルク?

中村:向こうではベールって言い方だったかな? まとめ買いですけど内容はセレクトしていました。たとえばラルフローレンのこの色はダメとか、サイズの枚数を指定してとか。それから商品のダメージチェックです。
こういう細かな所に気を配る事が当時は日本人にしかできなかったので、日本市場にハマったのかなと感じました。現地での交渉もしっかりしていましたし。そんな仕事を2年ぐらいやっていた時、急用で一時帰国し札幌に戻りました。

山本:自分では意図していない帰国ですか。その時は何歳?

中村:たぶん、23?24歳ですね。
帰国して改めて日本からアメリカを見た感じがありました。

山本:そして再びアメリカへ

中村:いえ(笑)

山本:ん? ん?

中村:道内の農家に住み込みで3ヶ月ほど・・・

山本:農家??

中村:雲隠れみたいな感じです(笑)
20代前半って、生き方や考え方って、アッチ行ったりコッチ行ったりするじゃないですか、たぶんそんな感じだったと思います。

山本:そうだよね、そうだった。自分も20代の頃、6~7社は仕事変えてる(笑)

中村:ですよね笑。それで農家に住み込みで働いていたんですけど。仕事以外にやることがない。クドウジュンキさんのラジオが一番の楽しみでした(笑)
そんな生活をしていると、毎夜、思いつめちゃうんですよね。

山本:牧草ロールの上で夜空見上げながら?(笑)

中村:ないです笑。布団の中ですね(笑)
そして思いつめた結果、アメリカで企業しようと腹を決めました。

山本:20代真ん中で、企業した人は沢山いるけどアメリカで企業した人はボクの知り合いにはいません(笑)。法人設立の手続きとか他国のルールで二の足踏んじゃうよね普通(笑)。

中村:買い付けの仕事で知り合った諸先輩がいましたので、その辺りの心配は考えていませんでした。ただその時のビザがF1(学生ビザ)でしたのでボクがアメリカで企業します!と言ったところで、アメリカから見れば当然ノーです。語学学校に授業料払えばF1ビザは出してもらえたのでとりあえず再度学生として渡米し、職探しから始めます。

山本:また買い付けの会社?

中村:いえ、バーのバーテンです

山本:また意外なとこきたね(笑)

中村:ハリウッド近くのウエストLAという町にある、日系3世のラルフという人が経営していたバーですけど、今でいうガールズバーみたいなお店でした。

山本:これぞアメリカって感じだね(笑)

中村:ですね!
セキュリーティーが店舗入口で立っていて、映画の様な光景でした。
お客さんは地域の会社の2代目みたいな人が多かったですね。
そこそこの金持ちなのでチップが多く、給料で生活しチップは商品を買い付ける為に
仕入のお金として使っていました。

山本:そのころから商いの基本を理解してますね。
ボク達のまちづくり会社でも同じ事で、原資が小さければそれに合わせた地域なりの商いをして、上がった利潤をさらに原資にして商いをする。
地域を活性化するという大義名分を掲げて助成金等を当てにして運営すると、直ぐに終わりが来てしまいます。

中村:そこまで考えてはいなかったかな(笑)。
商品買付けの会社で働いた経験値から、仕入ができれば商品は日本で絶対に売れる確信がありましたので、少額ですがコツコツ買い付けをしていました。

 

(つづく)

取材協力:FAbULOUS
http://www.rounduptrading.com/


FAbULOUS 中村健一さん その2

2017.05.31| あきない

このページでは、創成東で面白いコトをおこす「ひと」を紹介していきます。
前回に引き続き、複合店舗「FAbULOUS(ファビュラス)」をひらいている中村健一さんのインタビューです。
家具&雑貨ショップのサービスとしてひらいたカフェスペースが、ブロガーの記事で取り上げられたことをきっかけに盛り上がります。開店以来、中村さんが描いている「古き良きアメリカ」のイメージをつくった、若かりし頃のきっかけをお話ししてくれました。

きき手:山本忠(さっぽろ下町づくり運営スタッフ)
山本:アメリカ文化に触れたきっかけは?

中村:10歳以上歳の離れている兄です。兄と兄の友達から受けた影響が大きいです。映画・音楽・ファッション。同世代の人に比べたら、確実にませていたと思います。はじめてのアメリカは、高校2年生の時に行ったハワイです。たしか湾岸戦争の時。兄とその仲間と一緒に行って、何がアメリカなんだか訳が分からないまま帰ってきました。ドル札や標識など日本とデザインやディティールの違うものがあったかなぁ程度でした。で、リベンジをしたくて高校3年の時にまた兄達と再度ハワイへ。その時は気合入っていますから、バイトで貯めた120万を2週間で全部使ってきました。

山本:120万‼高校生が何に使ったの?

中村:覚えていないです(笑)。アメリカで金使ってやった!って、充実感の方が大きくて。あ、ウエスタンブーツ買い漁ったかも。

山本:スゴイ高校生(笑)。貯めた金額もスゴイけど使ったのもスゴイ。たまに見られる破天荒さはそのころからあるものなのかな?

中村:その時は満足感ありましたけど、ハワイでしたから。やっぱり大陸に行きゃなきゃと思うようになり、お金を貯めだします。高校生当時からファションが好きで、特にウエスタン系が好きで。西18丁目にあったデュークというお店を手伝っていましたし、本場に行きゃなきゃ!大陸に行かなきゃ!そう強く思っていましたね、根拠のない使命感に近い(笑)。

山本:若さの素晴らしさ(笑)。アメリカに住みだしたのはいつぐらいですか?

中村:20歳です。それまでは市場(本間水産さん)やサッポロファクトリー等で働きお金をコツコツ貯めていました。

山本:ファクトリーで働いていたんですね、その時の仕事内容は?

中村:オープン当初からサッポロビールの飲食部門で、ビールマイスターをやっていました。

山本:意外!飲食のイメージはなかった。当時のサッポロファクトリーは斬新だった。

中村:ドアノブや手すりに、ビール工場で使っていた工業用品なんか使ってカッコ良かった。

山本:そのころから東側に縁があったんですね。そして、お金が溜まり、念願のアメリカ大陸へと

中村:そのころ、アメリカに留学したことがある友人が出来まして。彼がまたアメリカに行くという話を聞き、彼を追って大陸へ旅立ちます。アルハンブラといって、ロスから数キロ離れた場所です。その場所の最初の印象は、中華街、チャイニーズタウン。レストランが中華しかない(笑)

山本:アメリカに憧れ、たどり着いたところが中華街。これはオレの求めていたアメリカじゃない?(笑)

中村:まったく違う(笑)。 ただ、当てもないので友人の家にルームシェアして住むことにして、とりあえず英会話学校(大学に行く前の準備学校みたいなもの)に通います。
映画で見た、辞書束ねて肩に引っ掛け…なんてキャンパスライフを想像していたのですが、現実はまったく違って。学校も英語圏の人ではなくアジア系ばかり。イメージしていたアメリカではなかった。

山本:それもアメリカの一部って言えば一部なのかな~。

中村:そうですね。それもアメリカ、ボクが知らなかったアメリカです。

山本:学校にはアメリカに憧れてギラギラしている人が多かったんじゃない?

中村:そうでもないんです。極端でしたね、金持ちの道楽というか暇つぶしに来ている人と、なんかやってやろうって人と、その国にいられなくなった人。金持ちの割合は多かったかな、そういう人たちはすでに車もっていましたから。ボクは、さびれたチャリンコです。
日本から200万持って旅立ったんですが、収入が無かったので、みるみるお金が減っていくのが怖くなっていた時期でした。仕事しようにもまだ満足に会話できないですし、怖かった。ルームシェアしていた友達も、お金に余裕があるタイプだったので、向こうは全て外食、こっちはパンかじる毎日。
金持ちに対するやっかみも増して荒んでいきましたから、シェアをやめて格安の掘立小屋を見つけて引っ越しました。

山本:憧れのアメリカは厳しかった

中村;はい。その時期に、学校で英語に慣れる為、歩いている人に道を尋ねて目的地に行くという授業がありまして、訳もわからずカフェでコーヒーを飲みながら新聞を読んでいる男に声をかけたんです。拙い英語で会話をしていると、その男が「お前は何をやってるんだ?」と質問してきて。今考えても何故だかよくわからないんですが、その時の覚えたてのフレーズで「仕事を探しているんだ」と口走ったんですね(笑)。

山本:よっぽどお金が欲しかったんだね(笑)。

中村:たぶん(笑)。 そうするとその男が「ウチで働け」と。ボクからしたら、道端で出会った男に「困ってるなら、ウチで働け」って言われても、仕事内容も解らないので相当不安だった。でも、お金が欲しかったのもあり、勇気を振り絞りその男の家へ行きました。ビクビクして現場に行ったのですが、仕事はその男が買った家の修理を手伝う事でした。それがアメリカでの初給料です、20ドル、2,500円。しかも小切手でした。
金額ではなく、憧れていたアメリカに近づけた気がして腹の底からうれしかった。その小切手に屋根を塗った青いペンキが少し付いていました。いまだに目に焼き付いています。

山本:リアル北の国からだね(笑)。 ジュンと古尾谷雅人そのまんま!

中村&山本:(大爆笑)

―理想とは違ったアメリカでの滞在経験。それでもアメリカを慕う中村さんは、どんな想いをFAbULOUSに込めていったのでしょうか。続きのお話は、また次回に!

(つづく)

取材協力:FAbULOUS
http://www.rounduptrading.com/
企画・構成:山本忠/(株)ピントハウス 近藤洋介/(株)ノーザンクロス
編集:行天フキコ/(株)ノーザンクロス

FAbULOUS 中村健一さん

2017.03.27| あきない

まちの1人目
中村健一さん(有限会社ラウンド・アップトレーディング代表取締役)

このページでは、創成東で面白いコトをおこす「ひと」を紹介していきます。

今回、お話をお伺いしに向かったのは、南1条東2丁目にある複合店舗「FAbULOUS(ファビュラス)」。アメリカのストリートカフェを感じさせる店舗では、カフェスペースの他、雑貨や家具なども販売しています。まだ古いまちというイメージが強かった創成東にカフェをひらくに至ったいきさつを、まちひと・中村健一さんにお聞きします。

きき手:山本忠(さっぽろ下町づくり運営スタッフ)

 

山本:この場所に店舗(ファビュラス)を構えて何年目ですか?

中村: 12年目です。

山本:ここにした決め手、みたいなものはありましたか?

中村:たまたまというか、巡り合わせというか。もともとまちの中心部で古着や家具などを扱うショップをいくつかやっていたんですが、次はしっかりと家具を扱えるような広いスペースに出店したいと思っていました。それで中心部からは少し離れた場所を探していたら、この建物に出会ったんです。当時はガレージだったんですよ、ここ。人が訪れるような空間に変えることができるのか、正直不安もありましたが、理想のお店像に近づけるためにはここしかないと思って、店舗デザイナーさんと話し合いを重ねました。

山本:理想のお店像。それは以前から考えていたんですか?

中村:頭の片隅にはあったんですけど、この物件を見て意識しだしたというか。ただ周りの人からは大反対されました。箱があまりにも大きいのでランニングコストもどのくらいになるか想像もつかないし、こんな寂れた場所で商売するなとか。

山本:当時の創成東は、「雰囲気暗い!」というような声ばかりが聞こえましたよね。自分も12~14年前、東で商売してみない?って声かけて相当数断られました。

中村:でも自分なりの勝算があったので出店しました。僕の場合、アメリカに住んでいて海外を見ていた影響は大きいと思います。ロスにあった倉庫群だとか、買い付けに行く場所と物件の匂いが似ていましたね。アメリカでは古い物件を自分達でDIYでリフォームして、自分たち流に商売をすることが当たり前でしたので、違和感はまったくなかったです。

山本:今でいうとセルフリノベーションってものにあたるかな。先取りしすぎですね(笑)。FAbULOUSがオープンした12年前、札幌には業種がミックスした複合店舗はほとんど無かったのでは?

中村:まだ「ライフスタイル」という言葉があまり使われていない時代。ライフスタイルの提案を表現していた店舗は、札幌だとD&DEPARTMENT、アフタートークかなぁ。僕はずっと物販畑で、家具やデッドストック物を扱っていたのですが、高額商品の商談をしている際に、お客様にリラックスしていただくためのラウンジが欲しいなと思いはじめて。それがカフェをつくろうという考え方のはじまりですね。

山本:最初は、物販の為のカフェスペースであったと。

中村:そうなんです。カフェスペースでの売り上げは期待していませんでした。あくまでお客様へのサービスとして考えていました。外車のディーラーさんなどに行くと、コーヒーを飲みながら雰囲気のあるサービスってあるじゃないですか。当社もヴィンテージやアンティーク物の高額商品を扱っていましたので、その空気感をお店の商品にあわせて出したかった。

山本:そのことをお店として表現してオープンする訳ですけど、実際お客様の反応はどうでしたか?

中村:手応えはまったくナシです(大笑)。カフェのコーヒーを紙コップで出していたんですよ。シアトルスタイルだって言い張って。アメリカのキヨスクっぽい感じを出したくてメニューは何種類かのケーキと紙コップのコーヒー。お客様にアメリカを感じさせたかった。

山本:古き良きアメリカ、そのライフスタイルの提案。

中村:ですね。そうこうしていると、とあるブロガーさんの「札幌に検尿カップでコーヒーを飲ませる店がある」という記事から火が付き始めて。

山本:検尿カップ?!

中村:おそらく紙コップで提供する様子を面白く書いたんですね。コップにスリーブを巻いて、ロゴスタンプを押して出していたので。でも、ライフスタイルの提案ですから紙コップ等は全てアメリカから輸入して使っていたんですよ。そこは本気です。

山本:そのことがきっかけで、意図せずカフェの売り上げが伸びて行ったんですね。

中村:そのころも物販ショップがメインだ!って気持ちでやってましたが、お客様が隠れ家カフェみたいな使い方をし始め、食べ物の要望が増え出し、料理メニューを充実させ、厨房も増設し…今に至ると。ニーズに従いました。

山本:今のFAbULOUS、複合店舗としては札幌のトップランナー的な位置になると思うのですが、お店の理想像になっているものはやはりアメリカの影響が大きいですか?

中村:アメリカってなんかいいじゃないですか。僕たちが思春期に触れてきた映画・音楽、アメリカ文化が圧倒的に多い。映画の中で、アメリカの高校生は真っ赤なピックアップトラックにチアガールを乗せ、プロム(ダンスパーティー)で会った女の子と恋をするし、子どもたちはネルシャツにカーハートのジャケットをはおり、BMXに乗って冒険に出る。何もかも日本と違って見えた。圧倒的にカッコイイ。その国に行ってみたかった、それが全てですね。

―アメリカへの憧れ心は、ついに中村さんをアメリカへと旅立たせていきます。現地での滞在記とFAbULOUSオープンまでのお話は、また次回に!

(つづく)

取材協力:FAbULOUS

http://www.rounduptrading.com/

企画・構成:山本忠/(株)ピントハウス 近藤洋介/(株)ノーザンクロス

編集:行天フキコ/(株)ノーザンクロス